映画『わたしは、幸福(フェリシテ)』
2017-11-30

アフリカ西部にルーツを持つ1972年フランス生まれのアラン・ゴミス監督・脚本の2017年の作品。
「闘うことと受け入れること」というリアルなテーマに貫かれた新時代の名作と言い切れる映画だ。
アフリカ大陸中部のコンゴ民主共和国(旧ザイール、以下コンゴと省略)の首都キンシャサを舞台に、
歌手でもあるシングルマザーのパワフルかつデリケイトな生きっぷりを、
ストレートかつミステリアスな手法と音楽で心象風景をゆっくりと深く描き出す。
監督の周りの人間の経験がヒントになっている映画らしいが、
心を強くもって人と人とのつながりを大切にしなければ生きられない日常を刻み映し出していく。

フランス語で“幸福”という意味の名前を付けられた歌手のフェリシテは
バーで歌いながら女手ひとつで息子を育てている。
ある日、家の冷蔵庫が壊れて修理屋さんを呼んだところ、
家に来たのはバーの常連で“チャラ男”ながらフェリシテが本命らしきタブーという男だった。
同じ日に一人息子のサモがバイクの交通事故で脚に重傷を負い、
医者から「前払いでないと息子さんの手術はできない」と言われたフェリシテのために、
タブーやバンド・メンバーなどの仲間が協力してくれるもお金はまったく足らず。
簡単にだまされるほど人が良く、それでいて誇り高いフェリシテも、
息子の手術代を集めるために頭を下げることを決意し、
親族や別れた夫、以前お金を貸した男女、しまいには見ず知らずの金持ちのボスも訪ねる。
例によってネタバレを避けるために物語の序盤までの流れを大まかに書いてみた。

息子に対する母親愛や自立した女性の生き様云々の一種のフェミニズム、
コンゴの政治/社会の歪みも見て取れなくもない。
でもそういうことが映画の肝ではない。
特定の地域にしか通用しない作品ではなく普遍的な人間ドラマなのだ。
とにかくフェリシテの意識の流れがていねいに描かれている。
快活精力的で息子のために奔走する前半と打って変わり、
後半のフェリシテは心が折れたかのようになり、
張りつめていた糸が切れたかのようになり、
以前みたいにバーで歌おうと思っても声が出なくなる。
意気消沈した息子と共振したかのように。
話の筋はわかりやすいが、
最近の多くの映画みたいにただストーリーを追うだけには終わらない。
まるで目に映らない大切なものを炙り出していくような作りに舌を巻くばかりで、
物語を音声/音楽と映像がふくらませる映画でにしかできない表現にじわじわ圧倒されていく。

単なるBGMとは別次元で音楽が大切な役割をナチュラルに担っている。
その一つはカサイ州のバンドであるKASAI ALL STARSの演奏で、
フェリシテがバーで歌う時のバック・バンドも務めるだけに序盤から頻繁に登場し、
15~20人ほどの大所帯で原始的なほど熱くエネルギッシュなプレイを繰り広げる。
一方でベルギーなどの植民地だったということもあってコンゴの宗教の中心がキリスト教だから、
讃美歌みたいな曲を響かせるグループの映像が後半にときおり挟み込まれる。
彼女が参加してないから後者のオーケストラや合唱団は一種のシンボリックなイメージ映像だが、
対照的な音楽が広がるどちらの場面もフェリシテがおのれを解き放とうとしているシーンに見える。
映像の方も対照的なシンボリック・イメージを絶妙にブレンドしている。
フェリシテが歌う猥雑なバーをはじめとする街や彼女の住み家などが映画の大半を占めるが、
フェリシテが森や湖畔みたいな場所を夜中や早朝に彷徨うシーンが後半にときおり挟み込まれる。
後者は妄想や幻想のように映るが、
両者の映像のコントラストがフェリシテの心模様をはじめとする“俗と聖”を象徴しているみたいなのだ。
撮影時の露出オーバーっぽく白が飛んだ映像で映し出される街の光景や、
ちょっとした風景、家具などの映像を短時間挿入しているのも無意味に見えてシンボリックである。
生活臭ムンムンの映画でありつつスノッブな意味合いとは違う本質的なアートも感じさせる映画なのだ。

人間臭い映画であると同時に、
研ぎ澄まされていく人間の木漏れ日のような輝きがじわじわと心に染みてくる映画だ。
コンゴ生まれの俳優たちが映画の中核を成す。
みんな“ダシ”の効いた愛すべき好演である。
特にフェリシテ役の女優ヴェロ・ツァンダ・ベヤは初の映画出演を体当たりで挑み、
パワフルかつ繊細な演技で観る者の目をほんと離さない。
さすがに歌っている時の声は
ウルトラ・パワフルなKASAI ALL STARSのシンガーのヴォーカルが使われているそうだが、
“吹き替え”であることがわからないほどの演技力をライヴ・シーンでも発揮。
パワフル&デリケイト、
ホット&クール、
濃く、そして淡く、
サッパリした気性の女性を演じ切っている。

人物のアップが多い。
ぐいぐい躊躇せずにカメラが迫っている、
外見だけでなく一人一人の内面にも向き合って迫っている。
“生の人間”を映し出している
ポイントを押さえた必要最小限のセリフで息を吹き込む映画だから人物の表情も大切で、
あまり表情を変えない諦観めいた顔は“寡黙ゆえに雄弁”で息を呑むほどだ。
フェリシテが“ボーイフレンド”と繰り広げる終盤の“ラヴ・シーン”とトークもたまらない。
ほとんど笑顔のなかったフェリシテの表情の“ゆるみ”にドキッ!とする。
交通事故に遭ってから笑顔がなくて話すことも食べることも半ば拒絶していた息子も揺り動かす。
フェリシテの新しい“家族”が“無言のトーク”を楽しんでいる様子は微笑ましくて深く静かに胸を打つ。
序盤で修理を頼んだ冷蔵庫が終盤に息を吹き返して鳴るファンのブーン!って音が“祝砲”に聞こえる。
なんてことのないそういう音こそ幸福の響きであり、
“福音”にも聞こえる。
まさにグレイト。
★映画『わたしは、幸福』(『わたしは、幸福(フェリシテ)』)
原題:Félicité |製作年:2017年|製作国:フランス、セネガル、ベルギー、ドイツ、レバノン
129分| DCP |1.66|5.1ch |カラー:リンガラ語&チルバ語&フランス語
© ANDOLFI – GRANIT FILMS – CINEKAP – NEED PRODUCTIONS - KATUH STUDIO - SCHORTCUT FILMS / 2017
12月16日(土)より、ヒューマントラストシネマ渋谷、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国順次公開。
公式HP:www.moviola.jp/felicite/
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