EARTH at 東京・新代田FEVER 6月6日
2014-06-08

ワシントン州出身の“インスト・ヘヴィ・アメリカン・ロック・バンド”
EARTHによる1年9か月ぶりの2度目の日本ツアー最終日。
勤め人の方は間に合わない人も多かったのかこの晩最初に登場したRolloのライヴの頃は空間も目立ったが、
豪雨と強風にもかかわらず“ジム・オルークと7秒ビジネス”の出演の頃はまずまずの入りになっていた。
ただアーティスト間のセッティング時間等も長く、
EARTHがスタートしたのが21時10分過ぎで、
都心部からやや外れた会場ゆえに終電の時間を気にしてか途中退場される方もいらして気の毒だった。
とはいえEARTHのパフォーマンス自体は
待ち疲れてどんどん落ちてしまっていたぼくの気持ちをゆっくりと天界にまで上げていった。
今回も、
いや今回ますます超絶だったのである。
EARTHという名を背負って80年代末に生まれたときから
BLACK SABBATH(の前身バンド名は“EARTH”)の遺伝子を受け継ぐ覚悟を決めていたように、
昔も今もEARTHのキーワードのひとつが“ドゥーム”であることに変わりはない。
左右の手の動きでギター持続音の命を司るように方法論が深化しても、
90年代半ばまでの作品で目立つ“ドローン”がEARTHのキーワードのひとつであることにも変わりはない。
たとえインストであろうとポスト・ロックによくある無味無臭“無汗”の音とはかけはなれ、
“ドゥーム”も“ドローン”も土臭く骨太のロックで展開するライヴ・パフォーマンスだった。
まさに地に足の着いた表現、
まさに“earth”である。
9月リリース予定という新作からの曲もたくさん披露していたが、
むろんいつまでもあくまでもミニマル。
一昨年観たときも思ったが、
まるで“メビウスの輪”の演奏であり、
輪廻の音である。
時間と体力が許せば永久に持続する曲ばかりで、
ストイックにひとつひとつの響きを追うようにつなげて永遠の命にしている。
カート・コベイン(NIRVANA)がアルバムに参加した数少ないバンドの一つであるが、
リーダーのディラン・カールソン(g)は
結果的にとはいえカートに“引導を渡した人”だけに、
死に対して軽々しい輩を戒めるような終始悠々と落ち着いた佇まいで響きのひとつひとつが重い。
ときおりシンプルなMCを入れ、
独特の髭をたくわえて仙人のような形相でギターと対話しなから時にネックを持ち上げて黙々と弾き、
泰然としたその一挙一動が絵になる音楽家だ。
音に対しての覚悟を決めて自己表現に対しての責任を持ち、
おのれのはらわたの中に宿る“demon”をゆっくりとじっくりと紡いで解き放っていき、
彼岸と涅槃の間をゆっくりと行き来しながら遥かなるuniverseを創造していた。
EARTHもステージでインプロヴィゼイションを交えているのかもしれないが、
たとえば灰野敬二がやるアナーキーな音のコントロールや放射とは違い、
アメリカン・ロックの伝統を踏まえたベーシックなものだ。
血の歴史とともに有史以前からアメリカ大陸の地に染み込んでいるメロディも湧き上がっていた。
ゆっくりとした加速度も含めて
ここ10年程のEARTHがGRATEFUL DEADのライヴとタブることも再認識させられたライヴだが、
レイドバックとは一線を画し、
ゆったりしていながらもパンクやハードコア以降の前のめりの音である。
観ていて、
EARTHがビル・フリーゼルと組んだ曲を提供した映画『リミッツ・オブ・コントロール』の監督の
ジム・ジャームッシュを思い出した。
『デッド・マン』の音楽を全面担当したニール・ヤング(特に90年代以降)、
『ブロークン・フラワーズ』に「Dopesmoker」の一部が用いられたSLEEP、
前出の『リミッツ・オブ・コントロール』の数か所で曲が響くBORISともリンクする、
ジャームッシュ監督が映画の音楽に使ったミュージシャン共通の諦観の匂いが渦巻いていた。
曲はディランのギター独演でも形になるだろうが、
今のEARTHのライヴがロックの強度のアグレッシヴな音なのは、
ディラン・カールソン以外の二人のメンバーによるところも大きい。
キャップをかぶった姿がクールだったビル・ヘルツォーク(b)は、
フィンガー・ピッキングに留まらず弦を適宜叩きベースを打楽器のように扱って強靭な音を繰り出す。
そしてエイドリアンヌ・デイヴィス(ds)にまたまた惚れた。
“BORIS meets CORRUPTED”とでも言いたくなるアクションと間合いで
両椀を大きく振り上げながらタメを効かせてスネアを打ち、
特にここぞというときに蹴るバス・ドラムの入れ方は女性ならではのリズムで、
石頭の男性ドラマーにはなかなかできないだろう。
うつむくことなくしっかり前を見て熱く、
オルタナ/インディ・ロック系女性ミュージャンのような“敷居低すぎ感”とは一線を画し、
はすっぱに見えて品がありGIRLSCHOOLのメンバーとしても通用するロックなヴィジュアルも
かなりのポイントだった。
何しろ歌心が転がる音が打ち響く三人の絶妙のリズム・タイミングにとろけしびれた。
ステージ上での三人のさりげないやり取りは理想的な距離間の人間関係にも見えてきた。
アンコール無しのトータル100分のライヴ・パフォーマンス。
音楽で解放されるとはこのことだ。
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コメント
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Korokuさん、書き込みありがとうございます。
細かいチェックのレポート感謝します。ベストを彩るバンドの並びも素晴らしいですね。古いバンドだけでなく新しいバンドもあり、こういうふうに歴代のメタルに親しんでいる人がああいう音楽を奏でるところにも雄大な深さを感じます。やはりヴィジュアルは大切で、そういうディテールからも主張が滲み出ていますね。
細かいチェックのレポート感謝します。ベストを彩るバンドの並びも素晴らしいですね。古いバンドだけでなく新しいバンドもあり、こういうふうに歴代のメタルに親しんでいる人がああいう音楽を奏でるところにも雄大な深さを感じます。やはりヴィジュアルは大切で、そういうディテールからも主張が滲み出ていますね。
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最前列に陣取れたおかげでいろいろな発見がありました。
ディランのベストに付けられていたサバスやディオ、スコーピオンズやラットのバッジ、そして背中に大きく貼られていたWolves in the Throne Roomのパッチが印象的でした。