映画『独裁者と小さな孫』
2015-11-14

1957年イラン・テヘラン生まれのモフセン・マフマルバフ(『カンダハール』[2001年]他)監督の2014年の映画。
独裁者として人々から恐れられていた大統領と未来の大統領になるはずだった孫の物語で、
強権ゆえにクーデターが起こった後の逃亡劇だが、
政治的な小難しさはまったくない。
贅肉を削ぎ落とした迷い無き作りで一瞬たりとも目が離せないテンポの良さで118分一気に見せる。
出てくる人間は大勢ながら主要人物を限定して明確なキャラクター設定を行ない、
ヘヴィな場面も含みつつ苦しみや悲しみを吹っ切るようにストーリーもまっすぐで、
ぐいぐい押していく佳作だ。

クーデターで身の危険を感じた大統領は、
ガールフレンドに別れを告げる時間も与えてもらえなかった孫が巻き添えを食うと察知して連れ出す。
何でも自由にできた大統領と“殿下”の孫は羊飼いなどを装いながら一般人の中に紛れ込み、
大統領は押し入った床屋に変装用の髪と髭にさせて孫には途中から“女装”をさせ、
弦楽器をくすねた後は“演奏者の老人と踊り子の孫という本作の鍵を握る旅芸人に“変身”して逃亡を続ける。
寝返った者も含めて大統領への報復のため血眼になって捜すクーデター勢力の兵士たちなどだけでなく、
懸賞金がかけられて民衆からもますます追われるようになってしまったために大統領と孫は、
船が待つ海を目指す。

国を支配していた当時は暗黒政治だっただけに大統領は暴君として庶民に恐れられていたようだが、
ホラー映画のような残酷シーンはほとんどない。
それっぽいシーンは数か所に絞って凝縮して血も極力見せない。
殺害場面を露骨に見せることで効果を上げる映画も多いが、
そうすることで作品のテーマを台無しにしてしまう映画も少なくない。
この映画は観る者の想像力を信じて、
そういう“事の寸前”や“事の直後”を見せることと“音声”で痛みをふくらませている。
大統領がどれほどひどいことをしたかも激昂した人々の話でほのめかす。
だからといって必ずしもセリフに頼った映画ではない。
逃亡劇ゆえに様々な場所を転々とする一種の“ロード・ムーヴィー”にもなっており、
風景も含めてスクリーンで観るのがふさわしいダイナミックな映像力で見せる。

何より演技が素晴らしい。
“元大統領”ということがバレた個人に対しては高圧的にもなるが、
大統領は逃亡中も悠然としていて“最期”が見えても泰然としている。
孫も終始無邪気なままで命の危機が訪れても動じないのは“箱入り孫息子”ならではだし、
その佇まいは“赦し”がテーマの一つであるこの映画の“救い”になっている。
二人以外の俳優陣がみな熱演だ。
それこそ怒りに燃える単なる民衆の一人一人に至るまで鬼気迫る本気の形相なのである。
特に姉を“盗られ”て人生がメチャクチャになった売春婦と、
歩けないほどの拷問を受けつつ必死の思いで妻の元にたどり着いた政治犯の二人の演技は、
大統領の犯した残虐な行為を遠回しに表現し切っていて息を呑む。

ポリティカルな要素も少なくない作品だが、
この映画に固有名詞は出てこない。
大統領と孫をはじめとする人物の名前も舞台になる国も“匿名”で、
観る者に余計な先入観を持たせない普遍的な設定になっている。
監督自身の実体験の反映も大きいはずだ。
自由に映画を作ることが不可能な母国イランから追われ、
監督は「この10年の間に、イラン政府に数回、
2度はアフガニスタンで(注:タリバン政権時代に破壊された同国の映画業界復興のため2年間暮らした)、
2度はフランスで、暗殺されそうになりました」とのことである。
2000年代後半以降隣国ロシアとの紛争が続いていた
西アジアのジョージア(注:日本では以前“グルジア”と表記されることが多かった国)で
この映画が撮影されたのも象徴的である。

最近“国民対話カルテット”という集合体がノーベル平和賞を受賞したチュニジアのように
クーデターとは違う形で暴政が終わった例もあるし、
暴力的な政権移行だとしてもこの映画のようなクーデターと同じ反乱の国はない。
独裁者を追い出す動きが他の地域でも起こっているとはいえ
イラク戦争後の中東や“アラブの春”に伴う北アフリカ諸国の2000年代半ば以降の一連の流れを
イメージせずはいられない映画だ。
『独裁者と小さな孫』が単なるヒューマンな感動もので終わってないのは、
独裁者を引きずりおろした後に世界中で起こり続ける混乱をしっかり描いているからだ。
もちろん独裁者の逃亡や処遇云々という本作のメインのシーンにもそれは表われているが、
強権の独裁者を追い出した後に治安が悪化しているカオスも物語の展開を邪魔しないように溶かし込んでいる。
最近の現実世界ではエジプトもそうだし、
イラクとリビアにいたっては無政府状態と言っても過言ではない。
体制が維持されているとはいえシリアもイスラム国が内戦を複雑化して人々は難民になって欧州などに移動。
世界は“人間性”が試されている。

それにしてもこの大統領、正体がバレた人間に対してもなかなか謝罪しない。
プライドが高いがゆえなのか、生れた時からの傲慢人生ゆえに謝り方を知らないのか。
けど結局は体制も反体制も謝罪しないことでは同じ穴のムジナだし、
日常生活の一般人でも自己保身の人間は謝罪しない。
そんな象徴がこの大統領にも思える。
免罪符だけは手放さない無責任でエゴ丸出しのあさましい人間たちにいいように利用されてマワされて、
民主主義はボロボロだ。
でも人間の可能性を否定もしていない。
「この国の民主化のために殺させろ」
「この国の民主化のために踊らせろ」
斬首処刑のための手斧の如く人間一人一人の喉元に突きつける。
憎しみの連鎖を断ち切れるのか。
そして“個”から生まれる音楽と踊りの力をあらためて知る。
百万の怒号や
うわべだけの愛と平和を超える。
“民主主義”という大嫌いな言葉がこれほど映える静かなラスト・シーンの映画を僕は知らない。
★映画『独裁者と小さな孫』
2014年/ジョージア=フランス=イギリス=ドイツ/ジョージア語/カラー/ビスタ/デジタル/119分/配給:シンカ
12月12日(土)新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ有楽町 他全国公開
http://dokusaisha.jp/
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